札幌時計台は観光ガイドに欠かせないシンボルですが、「誰が作ったのか」に着目すると、ただひとりの建築者というより複数の立役者が関わっています。構想を練った人物、設計した技術者、実際に建てた人、そしてその後の修復や管理に至るまで、札幌時計台には多彩な人々の手が加わってきました。この記事では、建築者を中心に、演武場としての起源、時計塔がつけられた経緯、そして現存に至るまでの歴史的背景を整理していきます。
札幌 時計台 誰が 作っ たのか:構想・設計・建設の主要人物
札幌時計台を「誰が作ったのか」を考えるとき、キーとなる人物はまず構想者、次に設計者と施工者です。これらはそれぞれ異なる役割を果たし、共同で建物を形作っていきました。以下に主な関係者とその仕事を明らかにします。
クラーク博士(ウィリアム・クラーク):構想の提起者
札幌農学校の初代教頭として着任したクラーク博士は、教育のほかミリタリートレーニングを重視しました。当時の演武場(エンブジョウ)の設立は彼の構想のひとつで、学生が兵式訓練や体育を学ぶ場が必要と考えたことが演武場建築のきっかけとなりました。建築物としての時計台を直接設計したわけではありませんが、根本となるアイデアを提示した人物として重要です。
ウィリアム・ホイーラー氏:基本プランと設計の方向付け
クラーク博士の構想を受け継いだ第2代教頭ホイーラー氏は、演武場の基本的な平面プランを作成しました。彼が計画した設計コンセプトがその後の建築の方向性を定め、建物の用途や空間構成を定義する根幹となっています。平面図を描くことで、講堂・演武場としての機能や配置が明確になりました。
安達喜幸(あだち よしゆき):設計と監督を担当
ホイーラー氏が作成したプランを基に、安達喜幸が具体的な設計を行い、施工を監督したのが建設の中心的な役割を担った人物です。木造建築の構造や内外装の仕様、材料の選定、工事の進行を指導し、1878年(明治11年)10月に演武場としての建物が完成しました。この段階ではまだ時計塔は設けられていませんでした。
演武場が時計台へ:時計塔の設置とその由来

建物が演武場として完成した後、時計塔が設置され「時計台」としての現在の姿を得るまでにはいくつかの経緯がありました。いつ時計が導入されたのか、どのような機械が使われたのか、そして建物の位置がどう変わったのかを見ていきます。
時計塔設置の経緯:黒田長官の発案
建物完成後、当初は小さな鐘楼だけがありましたが、明治14年に当時の開拓使長官が「ここには時計があった方がよい」と発案しました。その後、時計が発注され、建物にふさわしい塔を作ることが決まりました。時計塔設置が「思いつき」によるものであったという話は、人間味あふれるエピソードとして語り継がれています。
アメリカ製時計機械:E.ハワード社の装置
時計は米国ボストンのE.ハワード商会から購入されたもので、重りと振子を使う当時の最先端の塔時計機械が用いられました。1879年に到着し、その大きさに合わせて塔の設計が調整されたと伝わっています。時計の機械は現在に至るまで原形を保っており、日本に現存する最古の塔時計機構のひとつです。
設置・動作開始の日時
時計塔は1881年(明治14年)8月12日に運転を開始しました。演武場としての建物が1878年10月に完成し、時計塔の設置が少し遅れて行われたことがわかります。時計設置のための塔改築を含めた工事によって、現在私たちが「札幌時計台」として目にする姿が整いました。
建物の移築と保存:構造・修復・維持管理の歴史
演武場として建てられた建築物は、完成後さまざまな用途を経てきました。さらに、場所の移動・修復・保存の努力によって現代まで建物が残っていることは大きな価値です。ここではその経緯と構造、保存活動について詳しく見ていきます。
1906年の移築(曳家)
建物は1906年に現在の場所に移動されました。これは市街地整備のためで、時計塔と時計機械を付けたままの状態で曳家工事が行われ、解体せずに移設された例として珍しいものです。請負者は山本金太郎であると伝えられており、向きについては議会で議論されましたが、元の西向きを維持しています。
建築構造と様式:木造・アメリカ西部様式の影響
建物の構造は木造であり、アメリカ中西部やフロンティア期の住宅に見られるバルーンフレーム構造などが取り入れられています。外壁は白い下見板張り、屋根は赤い板金あるいは瓦風の形状などが象徴的です。構造の単純さと実用性が重視され、演武場・講堂としての用途に適した空間構成がなされています。
時計の機械装置の保存と文化財指定
時計機械はアメリカ製と日本製の素材や工程の融合が見られ、発注書などの記録によると、工部省製作所に鋳造された部品が使われていたことも記されています。機械は設置時の原形を保って動き続けており、その動作する姿が建物の歴史的な価値を高めています。建物は国の重要文化財に指定されていて、定期的な修復・保存が行われ、市民とともに守られてきました。
歴史的背景と意義:札幌・北海道開拓と教育の場としての時計台
札幌時計台は単なる建築物ではなく、北海道の開拓時代、教育制度、都市の発展と深く関わる場所です。その背景を知ることで、なぜ多くの人々から愛され、訪ねられるのか理解できます。
札幌農学校の創設と教育理念
札幌農学校は明治9年に設立され、日本で西洋的農業や自然科学を教育する先駆的な機関でした。クラーク博士をはじめとする留学生教師陣が西洋教育制度を導入し、農業技術だけでなく、自由な発想や実践教育を重視しました。演武場は学生活動・体育訓練・式典など教育の中心的な役割を担う施設として機能していました。
開拓使と北海道の都市設計への影響
開拓使による都市開発政策の一環として札幌の街づくりが進められ、演武場や公共建築は開拓使の象徴的な施設でした。都市を計画的に整備し、欧米の制度や建築様式を取り入れることで、近代国家としての姿を北海道に示そうとする意図がありました。時計台はそのような方策の中で、教育・公共・象徴の側面を併せ持つ施設となりました。
文化財としての保護と観光資源としての役割
建物は1970年に重要文化財に指定され、また時計機械は機械遺産としても認められています。これらの指定により建築的・機械的な保存が法律の枠組みで守られ、定期的な修理・改修が行われています。また、館内展示や資料公開、市民イベントなどを通じて、観光資源としての価値が維持されています。当地のシンボルであり続けるための様々な取り組みが続けられています。
比較:札幌時計台と他の同時代建築の特徴
同じ明治期に造られた建築物と比べると、札幌時計台にはどのような特徴があるのかを比較すると、地方建築・技術輸入・保存の観点から理解が深まります。
国内他地域の演武場・木造公共建築との比較
演武場や講堂など教育施設として木造公共建築が国内にいくつか存在しますが、設計手法や建築様式、施工技術には地域差があります。札幌時計台はアメリカ由来の建築構造を取り入れており、また気候や資材の条件に応じた設計もなされています。他地域の木造講堂などと比べて、保存状態や建物の移築経験などが際立っており、珍しい例と言えます。
洋風建築スタイルとしての個性:アメリカ中西部様式の影響
外観の赤い屋根と白壁、尖塔風の時計塔、バルーンフレーム構造などは、当時のアメリカ中西部の住宅建築スタイルに通じるものがあります。このような輸入建築スタイルの影響は、北海道の早期開拓期に外国からの講師・技術者を招いて実現したもので、気候風土と融合した形で用いられています。
保存方法と法律による保護の比較
| 項目 | 札幌時計台 | 一般的な明治期木造公共建築 |
| 保存状態 | 原形を多く残しながら修復が継続 | 多くは老朽化・改築が繰り返されることが多い |
| 建物の移動 | 曳家で移築し方向も保持 | 移築は少なく、解体再建が主流 |
| 機械装置の稼動 | 設置当初の時計機構が現役で稼動中 | 時計などの可動装置は交換や停止が多い |
| 文化財指定 | 国の重要文化財・機械遺産として指定 | 地域指定止まりや未指定の例が多い |
まとめ
札幌時計台を「誰が作ったか」という問いに対しては、構想者・設計者・施工監督者という複数の人物が密接に関わっており、いずれかひとりだけを挙げることはできません。
クラーク博士が構想を提起し、ホイーラー氏が基本計画をまとめ、安達喜幸が設計と建設を監督したことで、演武場が完成しました。
その後、黒田長官が時計の設置を発案し、E.ハワード社の機械を取り付けることで「時計台」としての姿が確立しました。
さらに1906年には現在地に移築され、国の制度による文化財指定と保存修復が続けられており、建築機械構造ともに原形を保ちつつ現役であり続けています。
このように札幌時計台は多くの人々の思いと技術が重なって成立した建築物であり、北海道開拓の歴史や教育の発展を象徴する貴重な遺産として、今も多くの人に愛されています。



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